名無し
松江市は「石倉さん」が全国の市区町村で群を抜いて多い。中でも八雲町西岩坂は会う人会う人が石倉さん。一体なぜなのか。地域を歩き、由来を探った。
【地域の言葉】「出雲弁は下等社会で使われる言葉・・・」と教科書に 撲滅運動の理由
八雲町西岩坂の桑中地区は、住民によれば全21世帯が「石倉さん」だ。石倉幹さん(82)は「分家の3軒を除き、知る限り血縁関係はない」と話す。90代も珍しくなく「石倉同士でみんな仲良くしている」と相好を崩す。
地名、人名研究者の宮本洋一氏が運営するウェブサイト「日本姓氏語源辞典」によると、「石倉さん」は松江市に多く、とりわけ西岩坂や平原など八雲町に500人超と集中している。
町内で「石倉建築板金」を営んだ石倉吉郎さん(71)=八雲町平原=は、石倉さんは三つの石倉家にさかのぼれるという説を教えてくれた。吉郎さんの祖先である大畑(門名・かどな=家屋敷の各戸につける姓以外の通称)の石倉家、北畑(門名)の石倉家、宇留布(うるふ)神社の石倉家だ。
吉郎さんが所有する民俗誌『平原風土記』で三家のルーツに迫る。「西暦七三三年以前から北畑の石倉家は存在していた事も判明し、又(また)その本家である大畑の石倉家は其(そ)の上古い家柄である事が察しられる」とある。宇留布神社の石倉家は、北畑の石倉家一門の末裔(まつえい)という。
源流は大畑の石倉家で、出雲国風土記が完成した733年以前からこの地にいた可能性がある。
次に気になるのは八雲町で今も多い理由だ。「この辺りに新しく住む人は少なく、高齢独身男性が多いのが理由の一つかも」と吉郎さん。確かに要因の一つかもしれないが、果たしてそれだけだろうか。
◇ ◇ ◇
『平原風土記』を携え、1998年発行の『八雲村誌』編さん委員長を務めた郷土史家の藤岡大拙さん(91)を頼った。「平原風土記を見ると大畑の石倉さんが初めっぽい」とする。
藤岡さんは同じ姓の人が増えて、残る理由について「大畑の石倉さんがどうだったか断言はできないが」と前置きし、考察する。
元の石倉さんが土地を持っていたら、子が生まれると分家して広がる。「だんさん」(有力者)がいい人だった場合は、暮らしやすいとして住民はとどまる。
石倉さんがたまたま土地を持っていたため一帯に増え、いい地域だったから子孫も定着した、との見立てが成り立つ。「僕はそういう感情的な要素を歴史に入れても許されると思うけどね」と藤岡さんは語る。
◇ ◇ ◇
八雲町の前身である八雲村の歴代村長5人のうち4人が石倉さんだ。松江市になる前の最後の村長(任期1989~2005年)だった石倉徳章さん(80)=八雲町東岩坂=に八雲町の特色を聞くと「貧富の差や階級差があまりない地域」と分析する。
松江市中心部と約10キロ離れている地理的条件を背景に牛やお茶、農林業といった生業をそれぞれが持っていた。自分たちで生活をよりよくしようと工夫し、産業や文化が栄えた。明治時代には現在の八雲町内の一部である熊野村と岩坂村が、政府の模範村に指定されている。多くの「石倉さん」をはじめ、暮らしたくなる地域を自分たちでつくり上げた証しだろう。
また、『平原風土記』には、大地主だった石倉家が、江戸時代に火災で焼失した正禅寺再建のために林や畑を寄進したとの記載がある。相互扶助の精神が根付いていた時代背景を差し引いても、石倉家の相身互いの気持ちは強かったかもしれない。
長男が土地を独り占めし、次男や三男が職を得るため都市に出るスタイルだと家は増えにくい。
「石倉さん」が多いのは財産を分け合い、共有する意識が高かった町民性にもよるのではないか。石倉さんたちと触れ合い、感情的な考察がしたくなった。
3/23(土) 16:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/0fbdb56ac2f3119450b7f96e990586b06f2e1543
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240323-00000003-saninchuo-000-1-view.jpg
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240323-00000003-saninchuo-001-1-view.jpg
【地域の言葉】「出雲弁は下等社会で使われる言葉・・・」と教科書に 撲滅運動の理由
八雲町西岩坂の桑中地区は、住民によれば全21世帯が「石倉さん」だ。石倉幹さん(82)は「分家の3軒を除き、知る限り血縁関係はない」と話す。90代も珍しくなく「石倉同士でみんな仲良くしている」と相好を崩す。
地名、人名研究者の宮本洋一氏が運営するウェブサイト「日本姓氏語源辞典」によると、「石倉さん」は松江市に多く、とりわけ西岩坂や平原など八雲町に500人超と集中している。
町内で「石倉建築板金」を営んだ石倉吉郎さん(71)=八雲町平原=は、石倉さんは三つの石倉家にさかのぼれるという説を教えてくれた。吉郎さんの祖先である大畑(門名・かどな=家屋敷の各戸につける姓以外の通称)の石倉家、北畑(門名)の石倉家、宇留布(うるふ)神社の石倉家だ。
吉郎さんが所有する民俗誌『平原風土記』で三家のルーツに迫る。「西暦七三三年以前から北畑の石倉家は存在していた事も判明し、又(また)その本家である大畑の石倉家は其(そ)の上古い家柄である事が察しられる」とある。宇留布神社の石倉家は、北畑の石倉家一門の末裔(まつえい)という。
源流は大畑の石倉家で、出雲国風土記が完成した733年以前からこの地にいた可能性がある。
次に気になるのは八雲町で今も多い理由だ。「この辺りに新しく住む人は少なく、高齢独身男性が多いのが理由の一つかも」と吉郎さん。確かに要因の一つかもしれないが、果たしてそれだけだろうか。
◇ ◇ ◇
『平原風土記』を携え、1998年発行の『八雲村誌』編さん委員長を務めた郷土史家の藤岡大拙さん(91)を頼った。「平原風土記を見ると大畑の石倉さんが初めっぽい」とする。
藤岡さんは同じ姓の人が増えて、残る理由について「大畑の石倉さんがどうだったか断言はできないが」と前置きし、考察する。
元の石倉さんが土地を持っていたら、子が生まれると分家して広がる。「だんさん」(有力者)がいい人だった場合は、暮らしやすいとして住民はとどまる。
石倉さんがたまたま土地を持っていたため一帯に増え、いい地域だったから子孫も定着した、との見立てが成り立つ。「僕はそういう感情的な要素を歴史に入れても許されると思うけどね」と藤岡さんは語る。
◇ ◇ ◇
八雲町の前身である八雲村の歴代村長5人のうち4人が石倉さんだ。松江市になる前の最後の村長(任期1989~2005年)だった石倉徳章さん(80)=八雲町東岩坂=に八雲町の特色を聞くと「貧富の差や階級差があまりない地域」と分析する。
松江市中心部と約10キロ離れている地理的条件を背景に牛やお茶、農林業といった生業をそれぞれが持っていた。自分たちで生活をよりよくしようと工夫し、産業や文化が栄えた。明治時代には現在の八雲町内の一部である熊野村と岩坂村が、政府の模範村に指定されている。多くの「石倉さん」をはじめ、暮らしたくなる地域を自分たちでつくり上げた証しだろう。
また、『平原風土記』には、大地主だった石倉家が、江戸時代に火災で焼失した正禅寺再建のために林や畑を寄進したとの記載がある。相互扶助の精神が根付いていた時代背景を差し引いても、石倉家の相身互いの気持ちは強かったかもしれない。
長男が土地を独り占めし、次男や三男が職を得るため都市に出るスタイルだと家は増えにくい。
「石倉さん」が多いのは財産を分け合い、共有する意識が高かった町民性にもよるのではないか。石倉さんたちと触れ合い、感情的な考察がしたくなった。
3/23(土) 16:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/0fbdb56ac2f3119450b7f96e990586b06f2e1543
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240323-00000003-saninchuo-000-1-view.jpg
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